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お寺の話し合い法座で

私が住職を務めさせていただいているお寺の法座では、いつも夜座のご法話をいただいた後、布教使さんを囲んで、茶話会(話し合い法座)を行っています。先日の彼岸会の茶話会では、葬儀のことが話題になりました。
昨今、葬儀に関するさまざまな話題がありますね。決まった定義はありませんが、家族とごく身近な身内だけで葬儀を行う「家族葬」が増えてきたことなど、その是非を問うというようなものではなかったのですが、戸惑いの声や是認論・否定論などから、隣近所とのおつきあいや助け合いのあり方まで話題が広がっていきました。
今までは、誰かが亡くなったら、故人が生前ご縁のあった親しい人や、隣近所の皆さんにお知らせして、皆さんに会葬していただいて葬儀を行うのが当たり前で、「なぜ葬儀を行うか」など、葬儀のあり方ということについてあまり考えていなかったのではないかと気づかされる話し合いになりました。
ここでは、その話し合いを踏まえて、改めて「葬儀」について考えてみたいと思います。
最近、「直葬」といって、通夜・葬儀を行わず、亡くなられたところから直接火葬場にご遺体を運んで火葬するだけの形が増え、社会的にも、宗教色なしの葬儀(葬儀と言っていいか疑問ですが…)についての是非が論じられています。これは、葬儀を行うための費用がたくさんかかり経済的に大きな負担になるという要因もあるのでしょうが、誰のためにそして何のために行うのかが理解されていないため、葬儀を行う意義を見いだすことができていないからなのかもしれません。

誰のため、何のため?

かつて本願寺出版社から出されたブックレットの『真宗の葬儀』には、一つの見解として、「『葬儀とは、不思議な縁によってであい、ふれあった人とのこの世でのご縁が尽き、人生最後のお別れをする儀式』です。亡き人を縁として、改めて、生かされているいのちの尊さを知らされ、かけがえのない人生を大切に生きる心を教えられる時であり場であります。古くから、浄土真宗の葬儀では死を『生死無常の知らせ』として亡き人を偲び、『正信偈』が読まれ、『葬儀から中陰』を通して、お念仏の教えに出遇う仏縁とされてきました。」としています。
「阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏と成り、迷いの世に還って人々を教化する」(「浄土真宗の教章〈教義〉)という教えをいただいている私たち浄土真宗の門徒としての葬儀とは、「亡き人の死を悼み、迂遠の方々と別れの悲しみをともにしながらも、お浄土に生まれられ、仏さまとなられたことをよろこび、今、そのことをご縁として、この私が、仏法に遇い、阿弥陀さまのご本願をよりどころとしてお浄土をめざして生きていくという思いを新たにさせていただく厳粛な儀式」と受け止めさせていただきました。

話し合いを通して

先ほどのブックレットではさらに、「葬儀本来の意味を問うことがなければ、葬儀は単なる死者への形だけの儀礼に終始し、形骸化してしまいます」と指摘しています。
まさに、今、「直葬」というが増えているのは、形だけの儀礼に終始し形骸化させてしまった結果と言えるのかもしれません。そのように考えると、葬儀本来の意義を必ずしも積極的に伝えてきたとは言えない私たち僧侶の責任は重いのだと思います。
あの未曽有の被害をもたらし、多くの尊い命を奪い去った東日本大震災が起こって以来、「直葬」の増加に歯止めがかかったということを聞きました。不条理に多くの命が失われるような出来事に出逢うとき、人は、大切な人の死を悼み、自らの命のあり方を考えざるを得ないのだと思います。
また、現在、「直葬」とともに、「家族葬」も急激に増加しています。その要因は、日頃からの隣近所とのおつきあいや助け合いの希薄化、経済的な負担を軽減するためなど、さまざまに考えられますが、「家族葬」の是非は別として、私は、むしろ、お付き合いと世間体を重視して大掛かりな葬儀をするよりも、大切な人を失った悲しみの中で、静かに亡き人を偲びたいとの遺族の思いが反映された結果でもあるのではないかとも思うのです。
法座に集われた皆さんとの話し合いの中で、そのようなことにも気づかせていただけた貴重な話し合い法座でした。
あらためて、みんなで話し合い、葬儀の意義を問い直し、あるべき葬儀の姿を取りもどす営みを重ねていきたいと思います。

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